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2012



2012.5|フェスティバル・パンフレット|編集・デザイン



2012.2|演出集|共同編集|デザイン:中山雄一朗


2011



2011.12|展覧会・コンサート フライヤー|デザイン



2011.10|ワークショップ記録集|編集・デザイン


2008-10



2010.10|イベントプログラム冊子|デザイン



2009.6|フェスティバル・パンフレット|編集・デザイン



2008.10|詩集(日本語/英語)|デザイン



2008.1|作品集|デザイン・編集

# by workbook | 2012-05-23 04:36 | works
ボディ・アーツ・ラボラトリーで、ダンスフェスティバルWWFes(ウェン・ウェア・フェス)で開催されたワークショップより11の記録をおさめたドキュメントブック[*]を刊行することになり、編集・デザインを担当しました。10月、刊行に関連してトークを開きUstream中継したのですが、その補足を残しておこうと思います。

トークは、この本の記録がアーティスト自身の手によって書かれたものであることから(1組を除く)、これを、いわば身体技術の伝達の一次(原-)資料とみなし、どのように批評的・実践的に読解し、論点を引き出すことができるかを主眼に行ないました。そのためのアプローチとして、担当者が、それぞれの特徴的な演習からその手法を抽出することを試み、それをもとに意見交換しました。

*『セルフ・コーチング・ワークショップ 2010』の販売告知を準備中です(決定しだい、詳細発表予定)。本の内容はこちら



補足

神村恵さんの演習に発した、観察方法をめぐっての主観的/客観(物質)的の議論について。
音を使った観察方法の基点を自らのポジションなどの観察者の側に置いたとしても、インテリアの位置など外的なポイントに置いたとしても、いずれにせよ、そこでの知覚の観察(音を観察している身体の状態(知覚のあり方)じたいの観察)は、内観記述にならざるをえないのではないか、ということ。(つまり内部観測=主観的なのではなく、また、観察の基点を外的な対象に置くこと=客観的・物理的なのではない、と言えるでしょうか)。

それを行なうのが、被験者自らが観測者(自ら実験の実験台になる一人二役、または、記述主体が記述される対象となる)の立場と言えるのだとすれば、自らの身体の状態を物理的な事実(データ)として捉える試みになるでしょうか。そしてそれは、被験者=観測者であるがゆえに、身体の状態を意識化することの意識化することの意識化……(以下続く)というような入れ子状の把握(実際には意識の切り替え?)になっていくと予想されます。その限りで、その観測結果を客観的に位置づけることは難しいと言えます。

けれど、そうして個々の実験装置に委ねられた身体/意識のモジュール(単位)を使ったカンバセーションようなものが、もしも複数人の間で成り立つのだとすれば、それはいまだ見出されない新しい言語(既存のコードによらない)が獲得される空間(マトリクス)になりうるのではないでしょうか。

ここで、いかに外的な基準のない場で基準をうちたて、客観的相関物として定位するかという問題が浮かび上がってきます。(10月30日のメモより)
# by workbook | 2011-12-03 22:17 | review
Whenever Wherever Festival 2011(企画:Body Arts Laboratory)で羽鳥嘉郎(演出家、けのび)・澄井葵(青年団演出部/,5)両氏によるワークショップ(WS)に参加した。WSのテーマを「よく・演出・しあう」に分解し、その定義・分析に始まり、日常行為に適用される「演出」の心がけや教え、モデルづくりをめざし、ディスカッションを踏まえた実演。さらに、それらが行なわれるワークショップじたいにも「よく演出しあう」という命題=義務が課せられるとする二重構制(演出と、演出の認識を並行すること)の狙いのもと進められた。

ディスカッションで提案された、演出とは、行為が何らかの意味として了解される可能性を含むときに見出されるものではないかという仮説から、個々が(世界にとっての)了解可能性が高まってしまうかもしれない方向にアプローチする実演(パフォーマンス)を全員で行なった。そして、それは同時に、私たちは人間(生物)同士だけでなく、壁や床にも演出されあっているという視点に基づくものだった。そこでは、主客や何に向かってという対象の把握があらかじめ成り立たず、行為や「いる」ことの意識化の無限螺旋状態のような感覚に陥ってしまう。つまり、前提となる演出の対象は確定的に扱えないが、にもかかわらず、演出が作用しあう世界はありうるのだ。その意味で、世界にとっての演出とは何かという視点が引き出されたWSには、どのような場でも試されうる普遍性を感じた。また、そのヴィジョンは、観察力によって媒介された共同体を夢見させるが、その不確定性にとどまるには?という課題も垣間みえた気がした。

全3時間のうち、2時間あまりがディスカッション、30分が実演に当てられたWSの進行の役目を、羽鳥が主に言葉を使うことで担っているように見えた。それに対して、澄井は参加者にマッサージなどを施し、いわば、フィジカルに「演出」(?)していたと言えるのだとすれば、今後この二つのポジションの拮抗が、どのように設計され展開されるかも注目される点に思えた。




羽鳥嘉郎・澄井葵
継続ワークショップ・プロジェクト「よく演出しあう」
(Whenever Wherever Festival 2011、エデュケーション・プログラムにて)

2011年7月9日
森下スタジオ Sスタジオ

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# by workbook | 2011-09-15 00:00 | review
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