高嶋晋一
* 初出:『Wake up. Black. Bear. 橋本聡』(WORKBOOK、2007)
ぼくは生は死ぬことだけの
ねうちがないと想っているもし
薔薇が自分たちの美にむなしく
なげくなら(の時)
しかし人類がすべての雑草は
薔薇であると確信しようとも
薔薇はほんのちょっと微笑む
だけだろう(ときみはしっかり気づくのさ)
――E. E. カミングズ 藤富保男訳『95篇の詩』より
1
ある二者が同一の空間を占めることができない――橋本聡の《Wake up. Black. Bear.》が条件とし、乗り越えようとする根本的な原理を、端的にそう言い表わすことができるだろう。私がここに存在し一定の場、空間を占めるということは、すなわち他の何ものかはそこから排除されるということである。また別の側面からみればそれは、ある一者が二つの空間に同時にいることはできないということでもある。橋本聡は、自明といえばあまりに自明なこうした原理を、ひとつの暴力として捉え顕在化させる。つまり、あれやこれやの暴力より何よりもまず、存在することそれ自体の暴力性が、そこでは問われているのだ。
たとえば、ある通りを歩いていて、向こう側がどうなっているのかわからない横道ないし路地を見つけた際に、「奥に行きたい」という願望が生じたとしよう。その願望は、奥に何があるか、それを確かめ対象化したいということではない。知覚したいのは何らかの個別的な対象ではなく、むしろ「奥行き」そのものだ。しかしその路地もひとたび入ってしまえば、一定のパースペクティヴを保った単なる道として知覚されてしまう。
ここでいう「奥行き」そのものを知覚することができないという事態は、反省的にのみ認識される。意識は場所を持たないが、普段それは制限とは自覚されない。こうした意識の遍在的/非局所的なあり方に対する抵抗として現われるものが、存在すること自体の暴力性もしくは「物質性」であり、それはネガティヴな(「~できない」という否定形の)かたちでしか把握されえないものである。
2
《Wake up. Black. Bear.》の構成要素は第一に、ホワイトキューブのギャラリー内を、入口に対して奥と手前とに大きく二分割する可動式の壁(パーテーション)と、その壁の片側にある鎖に繋がれたパフォーマー(作家本人)である。確かに観賞すべき対象としてヴィデオ映像(これについては後述する)がその壁の両側に投影されているのだが、むしろ実際の空間とそこにいる者の移動に関する限定、自由と不自由を巡る諸条件が、この作品の主要な題材としてある。
パフォーマーの行動範囲は、壁から自身の首と、階段状の立体物から左足とに繋がっている二本の鎖の長さに規定されており、二つに区切られた空間のうち奥のスペースにしかいることができない。壁にある小さな穴から辺りを覗くことは可能だが、壁の向こう側に行くこともギャラリーの外に出ることもできない。要するに、動きを制限された囚人同様の状態にあるわけだが、しかし彼は自分の繋がれた壁自体を動かすこと(といっても、人の身丈よりもかなり巨大な壁であるため、急速に移動させることはできないのだが)、つまり空間の分節は変えることができる。
一方観者は、ちょうどドアくらいの大きさの矩形が壁に空いているため、壁が隔てたスペースのどちら側にも行き来することができるが、壁の移動という空間の分節には関与できず、ときに閉じ込められたり、あるいは、壁が目一杯ギャラリーの入口側面に近づくと、そもそもギャラリー自体に入れなかったりする(それは来場時の壁の位置によって、観者が感受する空間全体の印象がかなり異なるということでもある)。
展示を観る場とその外の領域との境界の絶えざる変動。確かにそれはリテラルなやり方で為されている(パーテーションの変動によって、映像が投影される壁面の位置すら変わってしまう)。だが、この作品が観者に「物質的」だと感知されるのは、「境界」という観念を「壁」という実体として扱っているためではない。「物質性」を強調したと言われる作品は、かえってそれに先行した観念的な枠組みの方が前景化してしまう場合が多いが、《Wake up. Black. Bear.》はそれとは決定的に異なっている。なぜだろうか。経験に即して言えば、ギャラリーを満たす一定量の体積の内部で一枚の壁が前後に移動しているというのは正確な表現ではなく、今自分がいるこの部屋の大きさが、まるで伸縮するように変化し、かつそのつど一まとまりのものとして感知される。そして同時にその変化は、われわれが把握しているボリュームが部分であること(把握したものの外の領域があること)をも感知させる。映画におけるクロースアップの機能は、部分をそれ自体が切り閉じたひとつの全体として見せる場合と、切りとられた部分であることが強調されて見えない全体を指し示す場合との二種類あるが、ちょうどそれが同時に起こっているかのような分裂した印象を与える。橋本のプリミティヴな装置が、にもかかわらず洗練されているのは、イリュージョンの対立項としての対象の「物質性」ではなく、何かを対象化しようとする意識の働き自体が持つ限定性を「物質性」と捉え、それをつねに意識させてやまないからだ。
3
さて、空間を把握する際のそうした物質的な感覚のみならず、パフォーマーのふるまい(態度)から生じる観者への心理的な作用(エフェクト)が、この作品の第二の重要な構成要素である。観者に対して特に注意を向けるでもなく、淡々と動くパフォーマー。それによってギャラリー内に重く響き渡る鎖のジャラジャラという音。けれどそうした異様な雰囲気に反して、囚人のようなパフォーマーが時折喋る内容は、ある種の歓待の態度を示している。彼は「お茶はいかがですか」と観者に話しかけ、わざわざバックヤードの個室に行って薬缶に水を汲み、また別のところにある電気コンロでお湯を沸かし、ティーバッグで紅茶を淹れて「親しげに」もてなしてくれる(物品は室内全域に散らばっており、パフォーマーは逐一それらを取りに移動するので、彼が何かするごとに、鎖とぐらつくこともある壁の存在が意識される)。あるいは観者が帰りそうになれば、「お土産があります」と高所に掛けてある鞄を取りに行き、何やら手渡してくれる。
だがこの「親密さ」の身振りの総体は、壁を動かすというもう一つの身振りが観者を監禁する行為に繋がることで、フロイトの「ウンハイムリッヒ」よろしくすぐさま反転する。観者はこの空間に対してと同様に、安定したポジションを保つことができず、「親密さ」はむしろ「不気味さ」を助長する結果となる。
橋本聡の作品の稀有な点は、知覚的な空間把握の問題と、対人関係における心理的な距離の問題が、等しく構造的に扱われていることだ。というよりもそれは不可分な問題としてある。空間も心理もあらかじめあるものでなく、分節化されることによって生じる認識の産物である。しかしその認識は不可避的にある傾向によって枠づけられている。たとえば彼から手渡される「お土産」について考えてみよう。パフォーマーは鞄から取り出した二つの風船のうち一つに自分の息を吹き入れ、もう一つに息を吹き込むよう観者に言う。そうして膨らんだ二つの風船の口を結わえて繋ぎ合わせ、一方の空気を他方の空気に送り込み一つにしてから観者に贈るのだ。
空気とは個人が所有しえないものであり、誰にとっても必要な共有物、いわばパブリック・ドメインの最たるものである。誰が吸って吐いたともいえぬ空気をわれわれは日々呼吸しているわけだが、その当然の事実が風船を介して「あなた」と「私」の息の混合という具体的に目に見えるかたちになった途端、ある異和感、抵抗を孕むことになる。その異和感とは、個体/個物としての存在が「所有/所属」という根拠のもとにフレーミングされるとき顕在化する何ものかである。息をする=存在することが、即定義づけ(アイデンティファイ)を要請するという事態。そうした事態への批判として、橋本は一旦は新たに主体を見出す装置として取りだした「所有」という概念を、(「お土産」というかたちで)「贈与」へと転換させるのである。認識の形式が「所有」という方向にのみ規定される限り、彼はそれを認識だと認めないだろう。
《Wake up. Black. Bear.》
2006年5月6日-14日(9日間、1日8-9時間)
GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE
パフォーマー、来場者、木材、鎖2本、プロジェクター2台、スピーカー2台、モニター1台、DVDプレイヤー3台、電球、カップ、ティーバッグ、水、やかん、電気コンロ、展示チラシ、鞄
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* 初出:『Wake up. Black. Bear. 橋本聡』(WORKBOOK、2007)
ぼくは生は死ぬことだけの
ねうちがないと想っているもし
薔薇が自分たちの美にむなしく
なげくなら(の時)
しかし人類がすべての雑草は
薔薇であると確信しようとも
薔薇はほんのちょっと微笑む
だけだろう(ときみはしっかり気づくのさ)
――E. E. カミングズ 藤富保男訳『95篇の詩』より
1
ある二者が同一の空間を占めることができない――橋本聡の《Wake up. Black. Bear.》が条件とし、乗り越えようとする根本的な原理を、端的にそう言い表わすことができるだろう。私がここに存在し一定の場、空間を占めるということは、すなわち他の何ものかはそこから排除されるということである。また別の側面からみればそれは、ある一者が二つの空間に同時にいることはできないということでもある。橋本聡は、自明といえばあまりに自明なこうした原理を、ひとつの暴力として捉え顕在化させる。つまり、あれやこれやの暴力より何よりもまず、存在することそれ自体の暴力性が、そこでは問われているのだ。
たとえば、ある通りを歩いていて、向こう側がどうなっているのかわからない横道ないし路地を見つけた際に、「奥に行きたい」という願望が生じたとしよう。その願望は、奥に何があるか、それを確かめ対象化したいということではない。知覚したいのは何らかの個別的な対象ではなく、むしろ「奥行き」そのものだ。しかしその路地もひとたび入ってしまえば、一定のパースペクティヴを保った単なる道として知覚されてしまう。
ここでいう「奥行き」そのものを知覚することができないという事態は、反省的にのみ認識される。意識は場所を持たないが、普段それは制限とは自覚されない。こうした意識の遍在的/非局所的なあり方に対する抵抗として現われるものが、存在すること自体の暴力性もしくは「物質性」であり、それはネガティヴな(「~できない」という否定形の)かたちでしか把握されえないものである。
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《Wake up. Black. Bear.》の構成要素は第一に、ホワイトキューブのギャラリー内を、入口に対して奥と手前とに大きく二分割する可動式の壁(パーテーション)と、その壁の片側にある鎖に繋がれたパフォーマー(作家本人)である。確かに観賞すべき対象としてヴィデオ映像(これについては後述する)がその壁の両側に投影されているのだが、むしろ実際の空間とそこにいる者の移動に関する限定、自由と不自由を巡る諸条件が、この作品の主要な題材としてある。
パフォーマーの行動範囲は、壁から自身の首と、階段状の立体物から左足とに繋がっている二本の鎖の長さに規定されており、二つに区切られた空間のうち奥のスペースにしかいることができない。壁にある小さな穴から辺りを覗くことは可能だが、壁の向こう側に行くこともギャラリーの外に出ることもできない。要するに、動きを制限された囚人同様の状態にあるわけだが、しかし彼は自分の繋がれた壁自体を動かすこと(といっても、人の身丈よりもかなり巨大な壁であるため、急速に移動させることはできないのだが)、つまり空間の分節は変えることができる。
一方観者は、ちょうどドアくらいの大きさの矩形が壁に空いているため、壁が隔てたスペースのどちら側にも行き来することができるが、壁の移動という空間の分節には関与できず、ときに閉じ込められたり、あるいは、壁が目一杯ギャラリーの入口側面に近づくと、そもそもギャラリー自体に入れなかったりする(それは来場時の壁の位置によって、観者が感受する空間全体の印象がかなり異なるということでもある)。
展示を観る場とその外の領域との境界の絶えざる変動。確かにそれはリテラルなやり方で為されている(パーテーションの変動によって、映像が投影される壁面の位置すら変わってしまう)。だが、この作品が観者に「物質的」だと感知されるのは、「境界」という観念を「壁」という実体として扱っているためではない。「物質性」を強調したと言われる作品は、かえってそれに先行した観念的な枠組みの方が前景化してしまう場合が多いが、《Wake up. Black. Bear.》はそれとは決定的に異なっている。なぜだろうか。経験に即して言えば、ギャラリーを満たす一定量の体積の内部で一枚の壁が前後に移動しているというのは正確な表現ではなく、今自分がいるこの部屋の大きさが、まるで伸縮するように変化し、かつそのつど一まとまりのものとして感知される。そして同時にその変化は、われわれが把握しているボリュームが部分であること(把握したものの外の領域があること)をも感知させる。映画におけるクロースアップの機能は、部分をそれ自体が切り閉じたひとつの全体として見せる場合と、切りとられた部分であることが強調されて見えない全体を指し示す場合との二種類あるが、ちょうどそれが同時に起こっているかのような分裂した印象を与える。橋本のプリミティヴな装置が、にもかかわらず洗練されているのは、イリュージョンの対立項としての対象の「物質性」ではなく、何かを対象化しようとする意識の働き自体が持つ限定性を「物質性」と捉え、それをつねに意識させてやまないからだ。
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さて、空間を把握する際のそうした物質的な感覚のみならず、パフォーマーのふるまい(態度)から生じる観者への心理的な作用(エフェクト)が、この作品の第二の重要な構成要素である。観者に対して特に注意を向けるでもなく、淡々と動くパフォーマー。それによってギャラリー内に重く響き渡る鎖のジャラジャラという音。けれどそうした異様な雰囲気に反して、囚人のようなパフォーマーが時折喋る内容は、ある種の歓待の態度を示している。彼は「お茶はいかがですか」と観者に話しかけ、わざわざバックヤードの個室に行って薬缶に水を汲み、また別のところにある電気コンロでお湯を沸かし、ティーバッグで紅茶を淹れて「親しげに」もてなしてくれる(物品は室内全域に散らばっており、パフォーマーは逐一それらを取りに移動するので、彼が何かするごとに、鎖とぐらつくこともある壁の存在が意識される)。あるいは観者が帰りそうになれば、「お土産があります」と高所に掛けてある鞄を取りに行き、何やら手渡してくれる。
だがこの「親密さ」の身振りの総体は、壁を動かすというもう一つの身振りが観者を監禁する行為に繋がることで、フロイトの「ウンハイムリッヒ」よろしくすぐさま反転する。観者はこの空間に対してと同様に、安定したポジションを保つことができず、「親密さ」はむしろ「不気味さ」を助長する結果となる。
橋本聡の作品の稀有な点は、知覚的な空間把握の問題と、対人関係における心理的な距離の問題が、等しく構造的に扱われていることだ。というよりもそれは不可分な問題としてある。空間も心理もあらかじめあるものでなく、分節化されることによって生じる認識の産物である。しかしその認識は不可避的にある傾向によって枠づけられている。たとえば彼から手渡される「お土産」について考えてみよう。パフォーマーは鞄から取り出した二つの風船のうち一つに自分の息を吹き入れ、もう一つに息を吹き込むよう観者に言う。そうして膨らんだ二つの風船の口を結わえて繋ぎ合わせ、一方の空気を他方の空気に送り込み一つにしてから観者に贈るのだ。
空気とは個人が所有しえないものであり、誰にとっても必要な共有物、いわばパブリック・ドメインの最たるものである。誰が吸って吐いたともいえぬ空気をわれわれは日々呼吸しているわけだが、その当然の事実が風船を介して「あなた」と「私」の息の混合という具体的に目に見えるかたちになった途端、ある異和感、抵抗を孕むことになる。その異和感とは、個体/個物としての存在が「所有/所属」という根拠のもとにフレーミングされるとき顕在化する何ものかである。息をする=存在することが、即定義づけ(アイデンティファイ)を要請するという事態。そうした事態への批判として、橋本は一旦は新たに主体を見出す装置として取りだした「所有」という概念を、(「お土産」というかたちで)「贈与」へと転換させるのである。認識の形式が「所有」という方向にのみ規定される限り、彼はそれを認識だと認めないだろう。
2006年5月6日-14日(9日間、1日8-9時間)
GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE
パフォーマー、来場者、木材、鎖2本、プロジェクター2台、スピーカー2台、モニター1台、DVDプレイヤー3台、電球、カップ、ティーバッグ、水、やかん、電気コンロ、展示チラシ、鞄
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| 2010-12-28 19:34
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