ボディ・アーツ・ラボラトリーで、ダンスフェスティバルWWFes(ウェン・ウェア・フェス)で開催されたワークショップより11の記録をおさめたドキュメントブック[*]を刊行することになり、編集・デザインを担当しました。10月、刊行に関連してトークを開きUstream中継したのですが、その補足を残しておこうと思います。
トークは、この本の記録がアーティスト自身の手によって書かれたものであることから(1組を除く)、これを、いわば身体技術の伝達の一次(原-)資料とみなし、どのように批評的・実践的に読解し、論点を引き出すことができるかを主眼に行ないました。そのためのアプローチとして、担当者が、それぞれの特徴的な演習からその手法を抽出することを試み、それをもとに意見交換しました。
*『セルフ・コーチング・ワークショップ 2010』の販売告知を準備中です(決定しだい、詳細発表予定)。本の内容はこちら。
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補足
神村恵さんの演習に発した、観察方法をめぐっての主観的/客観(物質)的の議論について。
音を使った観察方法の基点を自らのポジションなどの観察者の側に置いたとしても、インテリアの位置など外的なポイントに置いたとしても、いずれにせよ、そこでの知覚の観察(音を観察している身体の状態(知覚のあり方)じたいの観察)は、内観記述にならざるをえないのではないか、ということ。(つまり内部観測=主観的なのではなく、また、観察の基点を外的な対象に置くこと=客観的・物理的なのではない、と言えるでしょうか)。
それを行なうのが、被験者自らが観測者(自ら実験の実験台になる一人二役、または、記述主体が記述される対象となる)の立場と言えるのだとすれば、自らの身体の状態を物理的な事実(データ)として捉える試みになるでしょうか。そしてそれは、被験者=観測者であるがゆえに、身体の状態を意識化することの意識化することの意識化……(以下続く)というような入れ子状の把握(実際には意識の切り替え?)になっていくと予想されます。その限りで、その観測結果を客観的に位置づけることは難しいと言えます。
けれど、そうして個々の実験装置に委ねられた身体/意識のモジュール(単位)を使ったカンバセーションようなものが、もしも複数人の間で成り立つのだとすれば、それはいまだ見出されない新しい言語(既存のコードによらない)が獲得される空間(マトリクス)になりうるのではないでしょうか。
ここで、いかに外的な基準のない場で基準をうちたて、客観的相関物として定位するかという問題が浮かび上がってきます。(10月30日のメモより)
トークは、この本の記録がアーティスト自身の手によって書かれたものであることから(1組を除く)、これを、いわば身体技術の伝達の一次(原-)資料とみなし、どのように批評的・実践的に読解し、論点を引き出すことができるかを主眼に行ないました。そのためのアプローチとして、担当者が、それぞれの特徴的な演習からその手法を抽出することを試み、それをもとに意見交換しました。
*『セルフ・コーチング・ワークショップ 2010』の販売告知を準備中です(決定しだい、詳細発表予定)。本の内容はこちら。
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補足
神村恵さんの演習に発した、観察方法をめぐっての主観的/客観(物質)的の議論について。
音を使った観察方法の基点を自らのポジションなどの観察者の側に置いたとしても、インテリアの位置など外的なポイントに置いたとしても、いずれにせよ、そこでの知覚の観察(音を観察している身体の状態(知覚のあり方)じたいの観察)は、内観記述にならざるをえないのではないか、ということ。(つまり内部観測=主観的なのではなく、また、観察の基点を外的な対象に置くこと=客観的・物理的なのではない、と言えるでしょうか)。
それを行なうのが、被験者自らが観測者(自ら実験の実験台になる一人二役、または、記述主体が記述される対象となる)の立場と言えるのだとすれば、自らの身体の状態を物理的な事実(データ)として捉える試みになるでしょうか。そしてそれは、被験者=観測者であるがゆえに、身体の状態を意識化することの意識化することの意識化……(以下続く)というような入れ子状の把握(実際には意識の切り替え?)になっていくと予想されます。その限りで、その観測結果を客観的に位置づけることは難しいと言えます。
けれど、そうして個々の実験装置に委ねられた身体/意識のモジュール(単位)を使ったカンバセーションようなものが、もしも複数人の間で成り立つのだとすれば、それはいまだ見出されない新しい言語(既存のコードによらない)が獲得される空間(マトリクス)になりうるのではないでしょうか。
ここで、いかに外的な基準のない場で基準をうちたて、客観的相関物として定位するかという問題が浮かび上がってきます。(10月30日のメモより)




