握った拳で握手は可能か――橋本聡《Wake up. Black. Bear.》について|2

高嶋晋一

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観るものを無理矢理事件に立ち合わせ、「観者」を「観者」のままでいさせないという橋本のアプローチは、1970年代初頭のアメリカのポスト・ミニマリズムの美術家、とりわけヴィト・アコンチの一連のパフォーマンス/インスタレーションと共通性がある。アコンチの代表作《Seedbed》(1972)は、ギャラリーの床が傾斜面になっており、その斜面隅にあるスピーカーを通して、床下にいるアコンチの話しかける声や自慰行為をする音、喘ぎ声が聞こえるという作品だ。一見見るべきものは何もないギャラリーの空間、いわば抽象的な空間に差し挿まれる異物としての身体。すなわち「何かを見る」というニュートラルな視点とは別のコンテクスト、パフォーマーと観者の非対称的な関係間に生じる欲望の導入。それは確かにスキャンダラスな側面を持つが、注目したいのは、パフォーマーと観者の距離の設定、その間接性である。マスターベーションをしながら話かけるという、これ以上ないほど唐突で「親密な」行為が、身体的に隔たっており、かつまったくその姿が見えず、しかし、板一枚隔てた観者のすぐ足元から発せられているという状況。この屈折した「距離」。パフォーマーと観者は、それぞれ互いの現前を奪われているという点で共通している。
「物質的」な抵抗とは、「距離がない」という直接的な接触によって生じるのではない。あるいは対象が「今まさに眼の前にいる(ある)」という充全な現前性が確保されていることとも違う。たとえば「静止している(という意識がある)のに、動いている(という感覚がある)」というような、意識と感覚の辻褄の合わない状態や、起こっている事態の速度に認識の速度が追いつくことがないという、永久に埋まらない時間差、それらによって生じる空白が「物質的」なのだ。
橋本の《Wake up. Black. Bear.》において、パフォーマーの諸行動は、決して観者を閉じこめることにのみ目的化されているわけではない。それは、観者へのパフォーマンスとしての、つまり見せるための行動としてではなく、あくまで自律した目的/ルールに従って組織されている。パフォーマー本人にとってAをするためにはBをしなければならず、BをするためにはCをしなければならず……式に連鎖する遅延の総体としての行動が、むしろ間接的なかたちで観者に影響をもたらす。つまりそれは「パフォーマーがXをすることによって、観者はYをされることになる」という函数的な関係であり、そうした状況においては、それ自体シアトリカルな図式に基づく、見る/見られる関係(すなわちどちらか一方が超越的なポジションに立つ関係)の転倒などは成り立たない。自らの行動が起こす観客への意図せざる作用は、観者の反応となってパフォーマーに自覚(フィードバック)される。起こったことをすべてルールとみなし作品に組み込もうとする橋本の志向においては、パフォーマーと観者のあいだの抵抗ばかりでなく、先に述べた各々の意識の働きにおける抵抗、ないし分裂をもひとつの出来事として感得する術が求められているのだ。
見る/見られる関係の転倒という図式を解体すること、ひいては既存の「作者-作品-観者」=「生産-流通-消費」という区分をいかに揺るがすかという命題以上にそこで問われているのは、そもそもあらゆる社会的な契約関係はどのようにして成立するのか、すなわち、あらかじめルールを共有している者同士のゲームではなく、互いに前提を共有しない目的も欲望もバラバラな者が出会うとしたら、それはいかなる条件においてか、ということだった。

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《Wake up. Black. Bear.》のもうひとつの構成要素である、壁面に投影された映像は、単独で展示/発表されたこともある《Untitled [bury]》という独立した作品で、ある日の早朝多摩川河川敷で行なわれた行為を、固定の長回しでヴィデオカメラによって記録したものである。しかし、地面に穴を掘り、その穴に自分で自分を埋めるという行為を、はたして「パフォーマンス」と呼ぶことができるのだろうか。ここではより一層究極的に、自分自身が物質(物理)的な存在であることを感知することにのみ、照準が絞られている。
橋本は掘った穴のなかに仰向けに寝そべり、はじめはシャベルを使って、下半身が埋まった段階からは直に右手を使って、周囲にある土を徐々に自分に被せていく。それからまもなくして、右手と白い息の吐き出される口以外の箇所はすべて土に覆われる。行為の限界を測るためだけの行為。感覚を遮ることで得られる感覚。それは原理的にまったく観者を必要としない(というよりその存在を拒絶するような)、秘私的なプロジェクトだといえるだろう。しかしそうした行為の完結性は、右手を宙にかざして「握手しましょう」と呟かれることで打ち砕かれる。いったいこの言葉は誰に向かって呟かれているのか? そもそも彼は、目の前に誰かいたとしても、それが誰なのかすら確認できない状態にあるというのに。
おそらく橋本聡は、作品が単に「物体」であるとも、逆に「観る側によってつくられる」のだとも考えていない。宣言とともに実行である彼の真にパフォーマティヴ(行為遂行的)な作品は、「あなたが見ても見なくてもそれは存在する/あなたとは無関係に、それは確固として存在する」と「あなたが見なければそれは存在しない/他ならぬあなたが見ることによってのみ、それは存在する」という、相反する感覚を観者に与える。自力で土中に埋まることと、そこから誰かに握手を求めること。この相反する感覚を観者に喚起させる二つの行為は、簡単には接続されず、前者の身振りから後者の身振りが出てくる必然性は実のところないのだ。一般的とみなされた回路を断ち、なおコミュニケートしようとすること。そこにはひとつの飛躍がある。けれど「他者」とはむしろ、世界中から自分以外のすべての人間がいなくなったとしても(もしくは明日地球が滅びるとしても)、それでも残る、なお自らの行動の指針(目的)となる相手のことをいうのではなかったか。だとするなら、これまで言い換えてきた諸々の「物質性」とは、総じて非人称的な(誰と名指すことのできない)他者性のことであるだろう。彼が握手を求めた誰かの、あるいはたとえば、E. E. カミングズの詩「ぼくは生は死ぬことだけの」の末尾に突然でてくる、人類から除外された「きみ」の感覚。そのいまだ何ものにも回収しえない特殊な領域が、観者の感覚として取り違えられるとき、はじめて新たな契約関係としての作品が成立するのだ。

[たかしま・しんいち|美術家]

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《Wake up. Black. Bear.》

* 初出:『Wake up. Black. Bear. 橋本聡』(WORKBOOK、2007、絶版)



アーティスト
橋本聡|はしもと・さとし
1977年生まれ。美術家。
パフォーマンスを組み込んだインスタレーション作品などを発表。
主な作品に《Re》《Wake up. Black. Bear.》など。
2006年第1回マエストロ・グワント(四谷アート・ステュディウム最優秀アーティスト賞)受賞。
2008年Asian Cultural Councilの助成により渡米予定。

著者
高嶋晋一|たかしま・しんいち
1978年生まれ。美術家。
パフォーマンスやビデオ作品を制作。
主な作品に《One Foot on the Moon》《Not a face, use the head》など。
ブログ「Noboby Told You」に文章を掲載。

編集者
印牧雅子|いんまき・まさこ
WORKBOOK主宰。


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by workbook | 2010-12-28 19:27 | text
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